「あなたがたは世の光です」 マタイによる福音書5章13~16節

保母光彦牧師説教
説教題:「あなたがたは世の光です」 マタイによる福音書5章13~16節

★暗誦聖句
・7月12日(月):マタイによる福音書5章14節●
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
・7月13日(火):マタイによる福音書5章3.4節●▼こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。
・7月14日(水):マタイによる福音書5章5, 6節●
柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう
・7月15日(木):マタイによる福音書5章8,9節●
心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。 
・7月16日(金):マタイによる福音書5章10,11節●
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
・7月17日(土):マタイによる福音書5章16節●
そのように、あなたがたの光を人々の前に㒯かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますなたがたの父をあがめるようにしなさい。

★説教要約
*目標:地の塩・世の光であると言われていることを受け止め、感謝をもって歩む。
*主題:神のすばらしさを現す。
*暗誦聖句:「あなたがたは世の光です」 (マタイ5:14●)

<地の塩・世の光>
 今日の箇所も、このメッセージを誰が聞いていたかがポイントになります。病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などがイエスのもとに連れてこられました。イエスはこのような人たちを癒されました。5章1節をみると、「その群衆を見て」と書かれていますので、「山上の説教」は、弟子たちだけでなく、困難や弱さのなかにありながらも、神による癒やしの味を知った人たちに向けても語られたことになります。
 
1.イエスの太鼓判
 そういう人たちに向けて、イエスは太鼓判を押された人たちが、困難や弱さの中にある人だとすると、「へえ~、そうなのかと、少し違和感を感じるかもしれません。病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などが、腐敗を防ぐ作用があるのか、そういう人たちが闇を照らし出すのか。人間の物差しではなかなか理解しずらいのですが、イエスはそうだと言われました。

2.イエスの価値観
 普通だったら考えられません。なぜ、病や痛みに苦しむ人が地の塩であり世の光なのか。明日の食事があるかを心配しながら暮らしていたかもしれません。社会の白い目を気にしながら、ひっそりと暮らしていたかもしれません。
痛みに耐えながら、今日の日を呪っていたかもしれません。しかしイエスの価値観では、そのような人がそのまま地の塩であり、世の光だということです。イエスの価値観は、あらゆることで逆説的です。
 普通だったら考えられないと書きました。イエスの「普通」は、私たちの「普通」と少し違います。私たちは、豊かな現代社会に生きていて、極貧にあえいでいるわけではありません。ということは、当時の「普通」とは違うということです。私たちは、イエスが「地の塩・世の光」といわれたことの意味を本当のところ実感できていません。地べたをはいつくばってみたときにわかる世界、社会の底辺から眺めてみたときに見える世界、それが、イエスの生きた世界です。ですから私たちは、本当のところは実感できていないのだという謙虚さをもって、このみことばを読む必要があります。

3.自称:地の塩・世の光 (何のこと?)
マタイの福音書は他の三つの福音書と異なり、パリサイ人や律法学者のことが意識されています。著者マタイの重荷だったのだろうと思います。それは自分の救いの経験から出たものだったのかもしれません。彼は収税所に座っているところでイエスと出会います。それで、人生が一変します。
マタイは当時の社会を恨んでいたかもしれません。取税人であれば、税を取り立てられる人たちから突き上げを食い、上からは押さえ込まれる。それは、一部の裕福層が支配する、矛盾に満ちた社会でした。宗教指導者たちの中には生活が大変な人もいたようですが、それでも律法主義で人々の心を縛っていた人たちでした。そうした支配階級の人々には何が足りないのか。何が必要なのか。マタイが特にそのことに関心と重荷を感じていたとすれば、何とかして彼らにイエスの惠のすばらしさを伝えたいと思ったこともうなずけます。
本当の問題は、貧しいことでも苦しんでいることでもない。律法を守ればどうにかなると思ってしまう人たち、自はそこそこやれると思っている人たち、そして、自分こそ、地の塩、世の光だと思っている人たちです。
「人々が・・・父をあがめるようになる」ために必要なのは、地の塩になろう、世の光になろうという人間の意識でない。そういった頑張りによって逆に神の恵みを受け損なうのです。逆に、素の立ち位置に自分を置いたとき、そこから世界を眺め、いろいろなことを考える。ああ、今日も大変だなあ、としみじみ思う、そういう姿にも希望がある。なぜなら、「あなたがたは地の塩です、世の光です」とイエスが言っておられるからです。
私たちは、今の自分のままで、地の塩、世の光だということを受け止めたいと思います。困難の中にあったとしても、神の国では、その自然なありようの中に、地の塩、世の光になる可能性があると信じたいと思います。7月4日のメッセージ(Devotional Diary)と一緒に見て下さい。

 【聖書から】マタイによる福音書5章1~2、13~16節 (新共同訳)

山上の説教を始める

5:1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄っ来きた。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。

地の塩、世の光

13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15また、とも火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16そのように、あなたがたの光を人々の前に㒯かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

           (以下を省略します)
1.写真:ガリラヤの風景、フランシスコ女子修道会の維持する教会、ティべりア湖と係留された釣船、つめかけた群衆を描いた絵画(ピーテル・ブリューゲル)
2. イエスの弟子たちについての解説。
3.「山上の垂訓」についての解説。
  

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